親鸞に学ぶ幸福論

「そんなにしてまでなぜ生きねばならないのか」はっきり示した、メールdeで学ぶ仏教教室です。無料メール講座が好評です。受講者4000人。

穢土、修羅の世界に生きた信長・秀吉・家康

f:id:kikuutan:20200315095000j:plain

 

 

【穢土(1)】


日本で彼ほど成功したものはないと言われる豊臣秀吉。

しかし天下人として送った晩年の彼は、

はたしてこれが本当に幸せな人なのだろうか、人生の勝利者といえるだろうか、

と首をかしげたくなるようなエピソードに事欠きません。

 

中でも、病に臥し、いよいよ死を覚悟した時、

跡継ぎである秀頼の行く末を案じ、

自分の死後、日本で最も有力な武将となる徳川家康に

我が子の行く末を託す際、すがりつくように家康に頼み込む様は痛々しいほどです

 

秀吉亡き後、家康が豊臣家に牙を剥くであろうことは

多くの武将たちがひそかに予感していたことではありましたが

秀吉とてあれほどの人です、

それらの武将以上にその時代の空気を感じ取っていたかもしれません。

それなのに、その家康より先に死んでいかねばならない無念さ、

そしてその一番危険な男に、大事な我が子を託さなければならないという

暗澹たる気持ちはいかばかりだったかと思います

 

信長、秀吉、家康を三英傑とは言いますが、

彼らのやった所業を知れば、彼らのどこが英傑といえるだろうか、と思います

私はライオンを思い出します。

ライオン社会では、一匹の強い雄ライオンが何匹もの雌ライオンとハーレムを作ります。

そのハーレムの王に、若き雄ライオンが戦いを挑み、

若きライオンが勝てば、かつての王であった雄ライオンは群れから追われ、

新たな王が君臨することとなります。

さて新たにハーレムの王となった雄ライオンが、

まず最初にすることは何だと思われますか。

なんと前のオスライオンとの間にできた子供を次々と殺していくそうです。

ぬいぐるみのように可愛らしい子供のライオンに雄ライオンが容赦なくおそいかかり、

バタバタと殺していくのを、メスライオンはただオロオロと見ているしかありません。

 

こんなのを知ると、なんと残酷なことか、

弱肉強食とは、無慈悲なことか、

やはり畜生の世界は残酷で無慈悲だな、人間はまだましだな、と思いますが

信長や秀吉や家康のやったことを見れば、なんてことはない、同じことをやっています。

 

信長が本能寺の変に倒れた後、

新たな権力者となった秀吉は、元の主君であった信長の子供を死に追いやります。

そしてまた秀吉亡き後、天下を取った家康は、秀吉の遺児である秀頼を殺害します。

ライオンと一緒ではないですか。

 

仏教ではこのような、煩悩むき出しでお互いだまし合い、傷つけ合い、苦しむこの世を「穢土」といいます。

煩悩によって汚れた世界、ということです。

権力が欲しい、財産が欲しい、その己の欲を満たすためなら、

親であれ、兄弟であれ、恩人であれ、

どんな恐ろしいこと、汚いことでも考えます。

特に財産や名声、権力が大きく動く政治の世界、権力者の世界では、

利権も絡み、欲も肥大化し、怒りや嫉妬も激しく渦巻くので、

いっそう無慈悲で残酷なものになります。

まさに「穢土」です。

 

秀吉なんかは「穢土」のまっただ中で、

人一倍煩悩に穢れ、神経をすり減らす日々だったのですから、

この、どこが成功者といえるだろうか、と思えてきます。

 

 

PS.秀吉を仏教の観点で見つめたホワイトボード講座は以下の動画から視聴できます。 秀吉の苦悩

なぜ無差別殺人は起きるのか、衝撃の動機とは

f:id:kikuutan:20200313103111j:plain

 

 

 

【無明(1)】


今日ご紹介するのはある10代の青年の書いた文章ですが、

けっこう毎年のように起きる無差別通り魔事件を起こす若者も

こんな気持ちが昂じての犯行だったのではなかろうかとふと思いました。

私も仏教と出会う前はこの青年のような虚無的な思いを確かに抱えていました。

彼の気持ちが分かるところがあります。

 

以下、その青年の文章です。

ーーーーーーーー

死ぬ理由はないが生きる理由もないし、死のうかなって思ってる。

バイク買おうかなって思ってるけど、お金たまるのにあと三ヶ月はかかるし、

人生は早送りも出来ないし辛気臭いよね。

三ヶ月も面倒だから死のうかなって思ってる。

まぁどうせ死なないのだろうけど。

死ぬより事件を起こすタイプかもしれない。

イラっとして切れてしまいそうになる。

切れる理由もないのだけど。

なんもないんだよね。

なんもないからなんかあまりにもつまんなくて

切れてしまいそうになったり死にたくなる。

友達もいないし彼女もいないし。

つまんない人生だなぁ~

働いて働いて、やっと休みも暇で暇で、

また働いて働いて。。早送り出来ないかなぁ。

ーーーーーーーー

 

無軌道な殺人などの犯罪の加害者を、

残虐で異常な人格と片付けてしまうと、見えてこないものがあります。

先日のメルマガでも取り上げましたが、

『フライデー』のカメラマンが数々の凄惨な事件を取材し、

どうして加害者がそんな犯罪に手を染めたのか、

生い立ちから動機まで丹念に調べ上げ、一冊の著書にまとめたその結論は

「自分たちとの明確な違いは存在しない」

というものでした。

 

いっそのこと、パンデミックになって世の中の秩序もめちゃめちゃになってくれ、

学校も会社も地震で倒壊してくれ、

窒息しそうな、この閉塞した環境から解き放たれるなら、

自殺だって、殺人だって、核ミサイルのボタンを押すことだってやるぞ、

という人がどれだけいるか分かりません。

常軌を逸した不条理な犯罪の数々は、

誰の心にも巣くっている、この虚しく、寂しく、孤独な暗い心が引き起したものと言えないでしょうか。

 

 

ps

無差別殺人の少年が「なぜ人を殺してはいけないのか」と真顔で聞き、うろたえる大人

なぜ人を殺してはいけないのか

 

真の仏教の師に巡り遇うことの難しさ

f:id:kikuutan:20200311101606j:plain

 

【善知識(1)】


「どんな人でも確実に儲かる」との謳い文句のビジネス情報商材を十数万円で購入し、

その通りやってみたものの、まったく収益が上がらない、という話をよく聞きます。

この件に関しては、わたしもインターネットで仏法を伝えようと勉強している経験上からも言いたいのですが、

まず大事なことは「容易にはネット上の威勢のいい宣伝文句に躍らされない」ことです。

ネットや投資の素人にとって成功した経験者のアドバイスは魅力的ですが、

本当に成功している人かどうか、確認された方がいいです。

 

「こんな暮らしができるようになりました」とアピールする自称・成功者の中で、

その実態は中学生のお小遣いにも満たない金額しか稼げていない、というのが相当あります。

それでいてそんな人が高額なサービスを売りつけようとしているのは、滑稽なほどです。

ところがこういった人様から大事なお金をもらってビジネスをする資格がない「なんちゃって先生」「なんちゃってコンサル」が

ネット上にはうんざりするほど多いのが実態です。

 

だからといって人の意見を無視せよ、というのではありません。

「成功者のアドバイスほど貴重なことはない」というのは、はっきりと言えることです。

ただその「成功者」が、本当に成果を出せる誠実な人かどうか、が問題で、その見極めを間違えてはならないということです。

 

ではどうしたらその見極めを間違えずに済むのか。

最も堅実な方法は、自分が勉強をして賢くなることです。

自身が力を付けるしかありません。

本は安価なのでオススメです。

それ系の本を何冊も読んでいくといろいろわかってきます。

また無料のサイトがあると思うので、そこでその人がアップしている文章をじっくり読むことです。

無料のサイトの文章、動画で、学べるものがない、惹かれるものがない、としたら

その人から学ぶのは止めた方がいいと思います。

つまり無料で読める文章、動画でも十分お金出してもいいクオリティだったという時だけ、検討すべきです。

 

なんでこんな話を仏教の教えを伝える当サイトで述べているのかといいますと、

これは仏教を学ぶ際にも同じことがいえるからです。

仏教を伝える講師、学者、僧侶だといっても、

誰でも正しく説いているわけではないことをよく知っていただかねばなりません。

「わたしは仏教をお伝えしています」と言っても、

ネットの自称・成功者と同様、いい加減な人がごまんといます。

そんな人の言葉を真受けにして、仏教はこんなものかと早合点されたら大変です。

仏教を説いているその人がどんな内容を書いているか、根拠があることなのか、

共感できるものなのか、論理的なものなのか、

無料でその人がアップしているものがいくらでもあるはずなので、

それを読まれ、この人ならば、と思われたら、検討してみられたら良いかと思います。

 

親鸞聖人は生涯の師である法然上人に巡り会われた感激を

『真の知識(師)にあうことは難きが中になお難し』

“よくぞ親鸞、法然上人にお遇いしたものぞ、どうして真の師にお遇いすることができたのか”

『本師源空(法然上人)いまさずば このたびむなしく過ぎなまし』

“法然上人ましまさずば、今生もまた虚しく過ぎ去っていただろう”

と、しみじみと法然上人にお会いできた感激を述べられています。

これらの親鸞聖人のお言葉からは、

真の仏教の先生にお遇いするということは並大抵のことではないことが

ひしひしと伝わってきます。

 

 

将来の進路を早く決めてしまうことの危うさを思う

f:id:kikuutan:20200309101110j:plain

 

 

【人生の目的(2)】


「将来何を目指すの?」との問いに

中学生、高校生ではっきり返答する子があれば

しっかりしてると感心されます。

大学生だとその返答に加えて、

「そのために今これをしています」と語れば、

有望だと評価されます。

一方「いえ、まだわからないんです」「考え中です」と答えると、

自立できていない、たよりない人と思われます。

 

そんな世の風潮にあおられ

早く将来の夢を持って、そのために今から走り出さなきゃ格好悪い、

と焦る人も多くあります。

ところが果たして将来の進路を早く決めるのがよいことなのか、

ちょっと考えさせられたメッセージがありますので、ご紹介します。

 

1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進教授は、

学生に「研究をするな」とよく言うそうです。

ちなみにたいていの教授は「早く研究テーマを決めて研究を始めなさい」と学生を急かします。

なぜ利根川教授は学生が早く研究テーマを選んで研究に着手するのを好まないか、

その理由をこう訴えています。

ーーーーーーーーー

大半の学者は、何が本質的に重要で、何が重要でないかの見分けがつかないから、

どうでもいいことを追いかけて一生を終っているわけです。(中略)

1人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。

研究テーマなんてごまんとある。

ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、

本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終ってしまうんですよ。

だから、自分はこれが本当に重要なことだと思う、

これなら一生続けても悔いはないと思うことが見つかるまで

研究をはじめるなといってるんです。

科学者にとって一番大切なのは、何をやるかです

ーーーーーーーーー

 

この一文を読んで、これは理系の研究テーマだけのことではなく、

人生そのものにも同じ事が言えるよなと思いました。

ちょっといいな、くらいで、それを人生の目的と決めてかかるのは危ういです。

いったん始めたら、数年して

「これちょっと違うな、自分のやりたいこと、やるべきことではないな」

と思っても、一度乗りかかった船ですから、

途中で下りるのも勇気が要ります。

自分より数年、下の世代と競争することになりますから、ためらってしまうのです。

そこで不本意ながらふんぎりつかず、その道をこなしていくうちに、

「どうでもいいことを追いかけて一生を終っている」となりかねません。

 

では「これは本当に重要なことだ、これなら一生続けても悔いはない、これで死んでも本望だ」

と心底思えるものは何か、これをハッキリつかむにはどうしたらいいか。

これについても利根川教授は

「大事なのは、何が本質的に重要で、何が重要でないかを見分けるジャッジメント能力だ」

と言います。

この利根川教授の言葉も重い、特に「本質的に」というところが。

本質的に重要か、そうでないかを見分けるジャッジメント能力、

これは科学者だけでなく、人生を決める大きな要素に違いありません。

 

ならばジャッジメント能力を磨くにはどうしたらいいのでしょう。

本を読んで先哲の智慧に耳を傾けることも大事でしょうし、

他者の失敗に学ぶこともあるでしょう。

歴史の教訓から教えられることもあれば、

異国に住んでみて違った文化に触れることも勉強になります。

会いたい人に会ってみる、会いたくない人と接してみる、

恋愛してみる、挑戦してみる、しゃべってみる、黙ってみる、

いろいろなことが肥やしとなることと思います。

 

その一環として、仏教の教えを学びの一つとされたい方は、

こちらの小冊子、読んでみてください。

無料のプレゼントです。

無料プレゼントはこちら

 

 

 

学問と勉強との違いを解説する

f:id:kikuutan:20200307213622j:plain

 

 

【人生の目的(1)】


「勉強」と「学問」の違いをお話しします。

明治時代、かの福沢諭吉は『学問ノススメ』で

「大いに学問をしなさい」と世の人たちに呼びかけましたが、

私の場合、「勉強しなさい」とは親や教師によく言われましたが、

「学問をしなさい」とは言われてこなかったように思います。

さて、勉強と学問は、どこがどう違うのでしょうか。

 

まず『勉強』ですが、これは「強いて勉める」と読みます。

強制的 の「強(きょう)」、強引 の「強(ごう)」、無理強い の「強い(じい)」で、

何かやらされている感のある響きですね。

 

かたや、『学問』は「問い学ぶ」と書きます。

まず【問い】“?”がある。

「なぜりんごは地面に落ちるのに、月は落ちて来ないのか?」

ニュートンはこの問いから万有引力の法則を発見したといいますが、

そもそもそういうことに疑問を持つことができるのが、非凡なところなのでしょう。

 

その問いの答えが知りたいと苦心惨憺(さんたん)、情熱を傾け、

ついに【なるほど】“!”と叫ぶ。

これが『学ぶ』ということ。

そこには感動があるはずだし、喜びがあるはずです。

 

そもそもニュートンもアインシュタインも

『勉強』した人ではなく、『学問』した人ではなかったか。

だから疲れも知らず、彼らは夢中に研究に没頭できたのだし、

あれだけの成果を残すことができたのでしょう。

 

しかしいつしか、彼らが学問をし、

血わき肉踊り、感銘覚めやらぬ筆で書いた数々の公式や文章が、

勉強で覚えなければならない教科書の暗記項目に組み込まれ、

受験生に苦しみを強いる材料になってしまいました。

「勉強のための勉強」「試験のための勉強」ではつまらないもの。

願わくは、歳がいくつになっても学問する者、学ぶ楽しさを味わえる者でありたいですね。

 

では数ある学問の中でも、究極的な問いは何でしょう。

それは

「私はどこから来て、どこへ行くのか」

「己(おのれ)とは何か」

「必ず死なねばならぬのに、なぜ生きるのか」

といった人間存在への疑問です。

これら根源的な問いの答えが知りたいと、

カピラ城を出て入山学道され、

35歳、ニレゼン川のほとり、ブッダガヤの菩提樹下で、

明けの明星を一見して「そうだったのか」“!”と大悟徹底されたのが

シッダルタ太子、のちのお釈迦様でありました。

 

=======

 

ユーチューブで「お経」について3回シリーズで話をしました。

https://www.youtube.com/watch?v=adWuVf68B38&t=36s

 よかったらご覧ください。

 

 

正義はときに無神経で残酷な事態を引き起こす

f:id:kikuutan:20200305211439j:plain

 

【正邪(1)】


日本最初の憲法『十七条憲法』には、

聖徳太子が国の柱にしようとした仏教の精神が息づいています。

『我、必ず聖にあらず。彼、必ず愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ』

“私が必ずしも正しいとはいえない。彼が必ず間違っているともいえない。ともに間違いだらけの人間のやることだから”

この一節は人間関係において大事な心得でありますし、

中でも権力を持つ政治家は肝に銘じなければならない言葉です。

 

自分が「正」「聖」と思い込むと、

反対意見を言う者は、絶対許せない「邪」「愚」と映ります。

権力を持つ者なら、その「邪」や「愚」は排除しようとかかります。

しかもその排除する自己の行為を正義だと思い込んでいるので、

相手の意や人権などお構いなし、で問答無用の処置となります。

 

一例を挙げます。

中世ヨーロッパ最大の汚点とされるのが、通称「魔女狩り」といわれる「異端裁判」です。

魔女の嫌疑を受けた女性たちが

一方的な取調べの後、投獄、拷問、私刑などの迫害を受け、

魔女であると判決が下れば、火あぶりの刑に処されていきました。

犠牲者の財産は、訴えた者、裁判官や教会へと流れていき、

彼らの私服を肥やしていくことになりました。

1400~1800年にほぼヨーロッパ全土で行われたもので、

その犠牲者の数は不明ですが、数十万とも数百万人にも及んだともいわれています。

 

こんな非人道的なことが許されていいのか、と声を上げる人がいなかったのは、

神に逆らう者への制裁は、通常の犯罪者以上に過酷なものでなければならない、それが神の意志だから、

との当時のヨーロッパ人の信念によるものでした。

なにしろ異端裁判の牽引車は他ならぬカトリックの法王だったのです。

 

魔女狩りの根拠とされたのは、旧約聖書「出エジプト記」22章の

「女呪術師を生かしておいてはならない」 でした。

聖書に書かれているから、神の代理である法王の意思だから、と

狂気はヨーロッパ中を巻き込んでエスカレートしていきました。

 

この異端裁判の審問官として最前線に立ち続けたのが、ドミニコ宗派の修道僧。

彼らは悪魔的なところはまったくない清廉潔白で真面目で信仰心も厚い聖職者たちでした。 

ただ自分のしていることは正しいと信じて疑わない人たちだったのです。

彼らは多くの人々を残酷な運命に追いやる行為に突き進みました。

我らこそが、神の思し召しにかない聖なる業務を遂行していると固く信じながら。

堕落した者に対しては、非人道的で無神経で残酷に対処するのは当然と信じながら。

 

カトリックだけではない、プロテスタントも同じです。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉で有名なルターですが、

誰よりも異教徒を憎んだ男として知られます。

カトリックによる「魔女狩り」や「異端審問所」のやり方を「手ぬるい」と批判しています。

 

このように何百年にわたって、カトリックもプロテスタントも競うように、

神の意志という旗の下に正当化された拷問も殺戮にまい進したのでした。

ちなみにローマ法王が異端裁判を「間違いだった」と世界に向かって公式に謝罪したのは、2000年でした。

 

 

とにかくこの病気を治したいという人に

f:id:kikuutan:20200303105113j:plain

 

 

【病苦(1)】


仏教に教えられる『四苦』(人間が避けられない四つの大きな苦しみ)の一つが『病苦』です。

文字通り、病気の苦しみのことです。

「病」という字は「やまいだれ」の中に「丙」と書きますが、

これは「どの病も甲乙つけがたい」から「丙」と書くのだそうです。

病気になると、かかった人は「自分の病気が一番辛い、こんな辛い病気は他にない」と思います。

リウマチの人は

「手足の痛みが激しくリウマチほど辛いものはない、何の因果で自分はこんな病気にかかったのか」

と我身の境遇を呪います。

めまいで苦しむ人は、

「朝から部屋がぐるぐる回って気持ち悪くて仕事どころではない、こんな嫌な病気はない、どうして私ばかりがこんな目に」

と悩みます。

このように、自分の病気ほど辛いものはないと病気にかかった人は皆思うところから

病は甲乙つけがたし、よって「丙」、なのですが、

漢字のつくりからも病気のつらさがよく分かりますね。

 

しかし数ある病の中でも「死にいたる病」は別格です。

人間ドックの再検査で「末期ガン」と宣告された人から聞いたことですが、

あまりのショックで放心状態になり、

解離性健忘というのだそうですが、

電車に乗り、家に帰るまでの記憶が全くなく、いつの間にか家に帰っていたそうです。

夜も寝付けず、朝方少し眠り、目覚めたとき

「ああ、宣告は夢でなかったんだ」と改めて現実だと思い知らされ、

いまだ経験したことのないつらい思いが襲ってきたといいます。

 

先ほど自分の病が一番つらいとみな思うと言いましたが、

いったん死ぬ可能性のある病気にかかると、

リウマチやめまいも嫌だったけど、これと比べたら他愛もないものだった、と知らされます。

いったんそのような病気になると、

それまで人間関係が面倒だとか、貧乏を馬鹿にされるのが嫌だとか、色々な悩みがあったのがどこへやら、

ただ願うのは、とにかくこの病気を治したい、と一心になります。

 

目を背けたいことではありますが、生きていく以上避けることのできない苦しみの一つなので、

お釈迦さまは四苦(生・老・病・死)の一つに数えられています。

この生・老・病・死を超えた真の幸福とは何か、これ一つ説かれているのが仏教です。

 

以下は老病死を超えた幸福とは何か、一つの角度からお話しした内容です。

↓↓↓↓↓↓↓

https://shinran-mail.com/happinist/

 

=========


仏教の教えをわかりやすく体系的にお話する

20回の無料メール講座好評配信中。